2014年7月4日金曜日

茶道を通じて

表千家の茶道の先生に約2年ほど通い、大変できの悪い生徒だったが、いつもやさしさと深い愛をもって接して下さった先生に申し訳なく思っている。

ただお陰さまで少しばかり茶道の世界が見え、さらに世界に対する視野が幾分か広がったと思う。

茶道は不思議な世界だ。ただ美しく静寂な世界ではない。招く側も招かれる側も、茶会を通じて人間のすべてがあらわになってしまう。

どれだけ、所作を美しく、正確に叩き込んでも、人として今までの生き様がすべてひのもとにさらされてしまうのだ。

『 小座敷の茶の湯は、第一に仏法をもって修行し、道を得ることである。家屋の立派さ、食事の珍味を楽しむことは俗世の習い。家は雨漏りせぬほど、食は飢えぬ ほどで足りるものである。これこそ仏の教え、茶の湯の本意である。水を運び、薪をとり、湯を沸かして茶を点てる。これを仏に供え、人にもほどこし、われも 飲む。花を立て、香をたく。皆々仏祖の修行をなぞらえ学ぶことである。なおくわしくは、貴僧の悟りにて見つけるがよい』

南方録より


茶道はこのように仏法の修行であると認識すれば、納得する。